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2009第3回九州都市景観フォーラム記録
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■報告『那珂川の空間利用の変遷』 
 
佐藤直之




佐藤 直之(さとう なおゆき)
1978年大阪府生まれ。2004年九州大学大学院工学府都市環境システム工学専攻を修了後、3年半建設コンサルタント会社に勤務。2007年10月より同大学博士後期課程に入学し、現在に至る。景観・まちづくりの研究に従事する傍ら、九州の市民参加型まちづくりプロジェクトに参加。


九州大学の佐藤と申します。「NPO水辺都市福岡を創る会」の事務局長を務めています。よろしくお願い致します。
私が「水辺都市福岡を創る会」で2年間活動した中で、いろいろな調査をしてきた結果を、皆さんにご報告させていただきたいと思います。
「那珂川の空間利用の変遷」というテーマを与えていただきましたので、明治から大正、昭和にかけてのいろんな那珂川沿いの写真を紹介しながら、どういうふうに那珂川が変わってきたかという話をこれからスライドで説明させていただきたいと思います。




まず、昔は博多の街では、海や河が市街地に近かったという話をよく耳にします。左側の絵は、明治の頃の博多湾周辺の様子を描いたものです。右側の写真は、現在の那珂川・博多川周辺の航空写真になります。左の絵と右の航空写真の位置関係を少し説明します。明治の絵の左下に描かれている西中島橋・東中島橋が今で言う昭和通りになります。この絵では、その昭和通りのすぐ近くに海があります。その海には沢山の船が賑わっている様子が描かれています。
一方、右の航空写真では、昭和通りは写真中央を斜めに通っているのですが、結局、埋め立てが進んで、海というのが明治期と比べると遠くなっているというのが分かります。時代の変遷を見てとれると思います。




歴史の変遷の中で、どういうふうな川沿いのアクティビティや空間構造が変わってきたのかということについて、説明したいと思います。まず我々が調べたのは、江戸期から現在に至るまでの歴史を調べました。その上で、大きく時代の区分を5つに分けて説明します。

福岡都心部の黎明期
まずひとつ目が江戸時代の頃の「福岡都心部の黎明期」となります。江戸期には現在のアクロス近辺に黒田藩が福岡城を建設しまして、そのお堀となったのが那珂川になります。この時に特徴的なのが、西中島橋の西側辺りに桝形門というのがありまして、川を挟んで西側の福岡部が武家地、東側の博多部が商人の町となっていました。桝形門には門番が立っていて、その門を行き来するのにわざわざ門番のチェックを受けてから通らなければならなかったという話を聞きました。ということから、当時は桝形門を通って、福岡部と博多部を行き来することに精神的な壁があり、現在とは違って自由な通りではなかったようです。
海側には、「商海」という船で賑わった港がありました。ここにはいろんな物資が沢山の船で運び込まれて、舟運の拠点として賑わっており、港としてのアクティビティが活発だった場所でした。
一方、この時代では川沿いに生活していたとか、営みや賑わい、遊びといったことは無かったようです。





中洲の発展期
次に明治に入った頃からの「中洲の発展期」です。この頃が、中州や那珂川沿いの発展期として見て取れます。
この江戸期には、人の交通を分断していた桝形門が取り除かれました。その経緯は、福岡市の最初の市長が、福岡部と博多部が分断している原因は桝形門だということで、撤去したそうです。福岡部と博多部が自由に行き来できるようになったのは、明治期になってからということになります。
この那珂川周辺の空間構造を見る上で、一番大きなポイントは、『九州沖縄八県連合共進会』という、九州の物産を一同に集め展示する博覧会を中洲で開催したことです。この時に、九州の方をおもてなす場ということで、那珂川右岸沿いにいろいろな料亭や旅館が建てられたという記述が残っています。そして同時期に、那珂川左岸に新聞社や銀行など業務施設が建ち、市役所・県庁などをはじめとした官庁街が形成されました。




これが当時の写真になりますが、左の写真が昭和通り周辺の様子を映した写真です。護岸は石積みでできており、その上には、アサヒビール等の看板が見られます。右の写真は昭和通りを上から俯瞰した写真です。中央の橋は西中島橋になります。



福岡部博多部の発展期
次に戦前にあたる「福岡部博多部の発展期」となります。中洲が発展した明治期から、その発展が博多部に及んでくる時期にあたります。また明治期と同様、『九州沖縄八県連合共進会』が再度、明治42年に開催され、県外の九州各県の方々を迎え入れる場所として、現在の天神中央公園横にある福岡県公会堂貴賓館が建設されました。
この当時、明治通り沿いには、路面電車が開設されています。東は箱崎、西は今川まで路面電車が走っていました。その他に、那珂川から支川の薬院新川の合流点の先端辺りに水上公園が整備されました。当時、川沿いに面する初めての市営公園ということで建設されております。
また福岡県内の人と県外の人が交流する場として、川沿いには多くの店が建ち並んだそうです。この当時は、都心部の賑わいの場として、川沿い一帯が賑わったそうです。




これが当時の写真になりますが、左上の写真にある通り、西大橋がかかる明治通りには路面電車が走っています。
右上の写真は、広告塔と水上公園です。右下辺りが水上公園になります。対岸(那珂川右岸)には沢山の料亭が並んでいます。
右下の写真の『カフェ・ブラジレイロ』は、福岡に昔から住んでおられる方は、ずいぶん馴染みのあるカフェだと思うのですけれど、その『カフェ・ブラジレイロ』は、当時の文化人たちが集うカフェとして賑わっていました。『カフェ・ブラジレイロ』は現在は冷泉公園近くに移転しているんですが、当時は那珂川沿いにあったということです。



戦災復興期
次は戦後で、「戦災復興期」となります。この当時は、戦災でだいぶ市街地が被害を受けた後で、博多部と中洲の大半の建物が焼失したそうです。この時期の大きな特徴として、この当時、国体が開催されて、それに合わせて国体道路が整備されました。今でも国体道路の春吉橋に行っていただくと分かるのですが、川下側に歩行者専用の橋が架かっていて、その横に車が通る広幅員の春吉橋が架かっています。現在の春吉橋が川上側に建設されることによって、当時の春吉橋は「中洲懸橋」に改名し、歩行者専用として再生されました。この中洲懸橋は後ほど写真でもご紹介しますが、通勤路として、また地元の人が遊ぶ場としても、かなりの人に親しまれた場所となっていました。
その他に清流公園や右岸側の遊歩道が、この頃に整備されています。



この当時の写真は数多く残っていて、左の写真が明治通り沿いの写真で、この左上隅に写っているのが、かつての博多城山ホテルです。現在は、大きなオフィスビルが建っています。写真中央が明治通りです。当時の護岸沿いには沢山の映画の看板、広告が並んでいました。
右の2枚の写真は当時の春吉橋(現在の中洲懸橋)の様子を写したものです。橋の高欄に子ども達が寄って来て遊ぶ光景であったり、船が横付けして人々がたむろっている様子など、当時の庶民の営みが身近にあったことを窺わせます。




次のスライドの左の写真に写っているのは、奥が車道として整備された春吉橋と右手前、歩行者専用道となった中洲懸橋です。写真手前が中洲懸橋の「たもと」です。現在は、ボラードなどで人が入れなくなっていますが、当時は橋の「たもと」に人が溜まるような施設であったり設えがしてあって、お店も出ていました。
その右側の写真が、今の清流公園辺りを写したものです。今では川側に清流公園−車道−中洲の街というようになっていますが、当時は川の傍に道があって、その道沿いに映画館などが立ち並んでいて、日中も多くの人で賑わい、また多くの人が水際を回遊できるような場所でもありました。




3枚目のスライドは、中洲懸橋付近の人々の様子を写した写真です。親子連れであったり、道端で商売をする人がいるなど、様々な人が行き交った場所であったそうです。



川辺空間利用転換期
最後の5番目の時期になりますが、戦災復興が終わり、高度経済成長から現在に至る「川辺空間利用転換期」です。
この頃は、現在の都心部の原型がつくられるいろいろな整備が取り組まれました。県庁が移転し、その後に天神中央公園が整備され、「福博プロムナード」として福岡部と博多部をつなぐ「福博であい橋」が建設されました。水上公園の再整備、那珂川プロムナード、その他いろんな公園の整備・改修もおこなわれています。大型施設ですとキャナルシティやリバレインが建設されました。


この写真は、今の那珂川の状況ですけれど、川下から上流に向かってみた風景です。昔の中洲のネオンは、かつては川に沿ってずっと続いていたのですが、現在ではめっきり、そのネオンは減ってきています。ネオンが減ってきた原因について広告業界の人に聴いたのですが、インターネットの普及が一つの原因で、同時に中洲の街としての吸引力が落ちているということです。天神であったり、博多駅周辺、福岡空港周辺の看板の方が広告を出したい方にとっては、メリットがあるとのことです。企業としてPRする場所としての魅力は、那珂川沿いは落ちてきているということでした。


一方、那珂川沿い両岸一帯ではいろんな顔をもった場所が多いのではないかと、私が調査する中ではそう感じました。屋台が並ぶ場所では人情味あふれる光景を目にしますし、左岸側の路地を一歩入ったら昔の料亭が並ぶ西中洲があったりします。那珂川沿いの界隈をちょっと歩いてみると、その場所場所でいろんな所があって、そこに魅力を感じさせられました。



私が昔、修士論文で博多川の調査をしている時に、上川端商店街の原会長から言われた話があります。「昔、那珂川は昔は僕らの遊び場だった。」とおっしゃっていて、「釣りや潮干狩り、水辺でいろんな遊びをしたり、打ち上げ花火もあった。地元にとっては身近な暮らしの場所だった。」とのことでした。その暮らしの場所であった那珂川というのが、どんどん整備はされているのですが、今はあまり人が通っていない。那珂川は通過する場所でしかなくて、川沿いを回遊する人はあまりみられないという調査結果でした。


川沿いを歩ける空間「さるくプロジェクト」の提案
これは、私が研究室の同期と一緒になって、6、7年前につくった「さるくプロジェクト」のイメージ図です。これは、「那珂川と博多川をもう一度、街の顔として取り戻そう」と、「NPO水辺都市福岡をつくる会」の前身になる水辺空間研究会で発表させてもらったものです。やっぱり、川沿いを歩ける空間が無いというのは、都市軸として考える場合に解決すべきことだと思います。それで、スライドにあるような、川沿いを歩ける空間のイメージを提案しました。幸いにも私が論文で書いたことや先ほどの「さるくプロジェクト」の提案が、その後つながって、今のNPOで那珂川周辺のまちづくりに関わらせてもらっています。




今では、「那珂川再生会議」ということで地元の方、企業、行政やNPOの方を巻き込んで活動を始めたのですが、そうした方たちの中には、「那珂川をもっと使いたい」と思っているもの凄く意識の高い方もいらっしゃいました。現在、その「那珂川再生会議」では、先ほどの金澤先生のアフィニティであったり、その場所に意味を付加するようなことを、今後どのように展開していくかということが議論のテーマになっています。それで、今年から川沿いでオープンカフェを社会実験で取り組んだりして、街の顔として徐々に変えようと取り組んでいるところです。



パリ、ロンドン、アムステルダム、ベネチアの水辺空間と比較する
最後のスライドですが、世界的に有名な水辺都市といわれる都市の航空写真です。
パリはセーヌ川、ロンドンはテムズ川、アムステルダムとベネチアは世界でも有名な運河の街といったように、それぞれ世界的にブランドをもった都市です。




この航空写真から、水辺の空間を識別できるようにすると、福岡の都心は、アムステルダムとベネチアと比べるとずいぶん引けを取りますが、パリやロンドンと比べると、市街地に対する水辺の面積はあまり変わらないというのが分かります。けれども、例えばパリでは、セーヌ川でいろんな人が川の絵を描いたりするような、いろんなアクティビティが川沿いに存在している。そういうことを考えると、水辺空間の多さといった物理的な面だけでなく、そこでのアクテビティが都市のシンボル空間としての価値を表しているということが分かります。

都市のシンボルとして、地元の方、観光客の方を含めて、どういうふうに使っていけるか、また歴史を踏まえた上での使い方というのがこれからの問われてくるのではと思います。

以上です。ありがとうございました

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